ケンブリッジで過ごした夏
          椿  伊 津 子
       ケンブリッジの全てのカレッジの紋章(クレスト)絵皿




 
 ケム川にかかる橋(ブリッジ)、こうした由来からケンブリッジという町が出来たことを、私はその土地に行って初めて知った。夫の勤務している某大学から英国ケンブリッジ大学在外研究員として派遣され、ひとり下宿住まいをしている彼を丁度夏休みに訪ねて行ったのは、もうかれこれ20年前のことである。
 
 ケム上流は小川のような川で、ボートを棹で漕ぎながらのんびりと土地の人達は川を渡っていた。鴨だろうか鳥たちが川面に遊び、急に飛び立つ羽音が響く。
 日本と違うことは人が少ないことだ。橋といってもどことなくローカルな感じの橋で、これがあの世界の超エリート集団を象徴するものかと、私は不思議なものを見たような気持ちになった。

 夫の下宿先はFさんという、やはり夫と同種類の職業で大学のプロフェッサーであった。尤もケンブリッジ大学というものは存在せず、さまざまなカレッジが集まっている学問の在り処を日本人が勝手にこう呼んでいるに過ぎないという。しかも此処では専門分野の教授は主任のプロフェッサー一人が強力な権力をもち他の教授は準教授という地位になるらしく、Fさんは後者の方のようであった。夫は何かの広告でFさんが部屋貸しをする事を知って、早速応募したのだという。
 Fさんの家は日本でいう新興の建売のような感じの、同じ家が何軒も並んでいるうちの一戸建の二階家であった。ただ、庭というか芝生を植えた空き空間は比較的広く、ワープロを打つ仕事で大学のパート勤めをしている奥さんと二人暮らしであった。娘さんは結婚して家を出て行ったので、その部屋が空いているのである。夫が生活している二階のその部屋に入ってみて私は驚いた。
 娘さんの写真があちこちに飾られ、人形や置物すべて女の子の趣味そのままの雰囲気だったからである。
 洋箪笥というか、ロッカーの中は娘さんの衣装が半分掛けてあり、後半分の空間をこちらに提供されていた。ベットが一つ小さな3点セットの藤椅子、鏡台。部屋のすぐ隣には娘さん専用のバスルームがあり、使用することができる。
 夫が奥さんに交渉してくれ、私と込みでこの部屋を当分使わせて貰う事になった。支払いは週いくらで計算され、これまでの倍額ということになったようだ。しかし問題はこの家ではキッチンが一階にあり、下宿人には使わせて貰えないのである。
 それでもおかげで簡易ベットがもう1台入れられた。ベットメーキングは週一度奥さんがやってくれるという。家の中の掃除は週一回他の人が来て家中を掃除する。奥さんはその間洗濯をしていたようだ。それは金曜日に決まっていた。奥さんは太って見るからに健康そうな女性で、とにかく働き者である。何より合理的に家を切り盛りしており、その上パートで自分の仕事と収入をも得ている。私はとても真似ができないと舌を巻いた。
 英国のこうした下宿ではホテル同様、朝食つきが多いようだ。朝食は一階の食堂で毎日メニューが決まっていた。

 なぜか黒パン。バター、チーズ、グレープフルーツ半個。奥さんが「ティーがいいかコーヒーがいいか」と尋ねるので夫は紅茶。私はコーヒーに決まった。紅茶にはもちろんミルクが添えられている。
 ただ、私たちは少なくとも蛋白質を採らなければならない。朝起きると最初の夫の会話はこうであった。
「今日は何を食べにいこうか?」
この近くに飲食店やストアは見当たらない。かなり遠くの町まで出なければならない。夫は自転車でカレッジに通っていたが、私はいつも徒歩で行っていたのだろか、全く記憶はないのだ。身体が弱い私のことを夫は心配してくれ、その宿は1週間で私は出たように思う。

 Fさん夫婦はカナダへ長期バカンスに行くといい、それを契機に後日夫は別の下宿を探して移った。今度は料金が前のFさん宅より高いが、共同台所があって心置きなく使用できるのだという。
 次の宿もやはりプロフェッサー宅であったが、100年経っているという古風な赤レンガの三階建ての大きい家であった。海外ではこうした旧い家に住むのを誇りにしているのである。人は金が貯まるとまず望むのはよい環境での旧い伝統的な建物を買うことだと聞いたことがある。私は新しいものにすぐ飛びつく日本人を思い浮かべ、なんとも情けなくなった。しかし私はそこには住まず、夫は安いホテルを探してくれ私だけけっこうな客になった。病気になって寝込まれたらコトだと思ったようだった。

 夫は大学の食堂に何度か私を連れていってくれた。ケンブリッジセンターには、教職員と学生とが共に利用できる広い食堂があった。すべてセルフサービスである。私も背の高い人々に混じって順番に並び、自分が持つ盆の上の大皿に次々と料理を取り分けていく。
安くてメニューが豊富な料理はとにかく有難かった。
 そのうちにどうも研究の為に来ている夫の手助けにはならず、のほほんと過ごす自分が気恥かしくなり、早めに滞在を切り上げて帰国しようと思い始めた。
 Fさんの奥さんとなんという違いだろうか。苦笑しつつそれでもケンブリッジの町の美しさを記憶に留め置こうと、ひとりで町を歩いた。
 8月の或る日、石造りの高い建物の間に通っている道路に横断幕が高々と掲げられていた。
 ヒロシマ・ナガサキデーとそれとなく読めるようであった。学問を探究する町で、こうした政治抜きの人間らしい心に出会って、私は感動を覚えた。

 それまで私は英国というもの、このケンブリッジという町の冷酷さを感じていた。町で会った老人から、すれ違いざまに「ジャップ!」と吐き捨てるように言われたこともあった。インド人や中国人にはともかく、当時まだまだ対日感情は厳しいものがあると感じた。

 ほんの小さ島国であったイングランド、他の島を侵攻し自国となし、植民地政策をもって世界の大国にのしあがった国。
 紳士の国というけれど、その陰にある、武力によって征服され搾取された罪なき植民地の人々。人間の尊厳をも失った多くの人間の哀しい歴史はどうであったのか?
 そしてこの世界における最高学府の人々は、その権威ある人々は、それに対していかなる声をあげたであろうか?
 私は日本人が明治時代の鹿鳴館に舶来思想をもって英国に追いつけと奮励努力したことを思う。日本という国家は英国を模範としたようであるが、その裏には植民地政策によって大国になった非人道的な要素をも模倣したのではなかったか?アジアの人間回復を求める理想も確かにあった。しかし、西欧列強の植民地政策に倣い、日本はそれを実践して戦争をし、敗れたともいえるのではないだろうか?

 英国は今もって世界の大国であり、高い文化を有する国である。日本の平安朝と同じように貴族の文化は高く美しい。しかし、それは人類の幸福・人間の倫理ということとは別の次元ではないのだろうか?
 私は日本の知識人の中で、毅然として彼ら欧米人に向かってこう呼びかけた岡倉天心を思い浮かべていた。


 
*「両大陸がお互いに警句を投げつけ合うのを止めようではないか、両半球の相互の利益によって、たとえもっと賢くはならないとしても、もっとまじめになろうではないか。われわれ両者はそれぞれ違った線に沿うて発展してきた。だが一方が他方と相補わない道理はない。諸君は落ちつかないという代価を払って膨張をかち得た。われわれは侵略に対抗するには弱い一つの調和をつくり出した。諸君は信ずるだろうか?ー東洋は若干の点において西洋にまさるということを!」 岡 倉 天 心『茶 の 本』 第1章 人間性の茶碗 (浅野 晃 訳)
 
                          *(原書は1906(明治39)年 Okakura Kakuzou「THE BOOKOF TEA」NY・FoxDaFeeld社刊・英語版)  




椿 伊津子           
創造社(早大教授 原 一郎主宰) 初期からの同人であった。

機関紙『交心』は原一郎から委嘱され3年間に亘って編纂責任も持った。

文学の人であると共に茶道裏千家の一門。

Webでも伝統文化『
椿わびすけの家』を主宰している。



 感想 ケンブリッジで過ごした夏を読んで ahoudori blue
 


お聴きの曲はJunkoUSAの新しいCDに挿入選考曲の一つ「JunkoUSA ForEver 永遠のおもいで」です。


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