ケンブリッジで過ごした夏 を読んで

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  「ケム川にかかる橋(ブリッジ)、こうした由来からケンブリッジという町が出来たことを、私はその土地に行って初めて知った」と書き出される椿氏のエッセイ「ケンブリッジで過ごした夏」を拝読した。英国ケンブリッジ大学在外研究員として派遣され、ひとり下宿住いをされているご主人を夏休みに訪ねて行かれた、約20年前の体験談である。

 

  文中にもある通り、ケンブリジはイングランド南東部、グレート・ウーズ川の支流カム川右岸に位置する人口10万あまりの都市である。カム川の渡河点、河川交通の限界点として旧くから市場街として発展してきた町である。13世紀には国王から認可状を得て Sturbridge 市場として発展し、中世を通じてイングランドの最も大切な市場の一つとなっていた。現在は、車椅子に載った天才宇宙物理学者ホーキングのいるケンブリッジ大学のある田園都市として知られている。ホーキングは筋ジストロフィーに冒され、28〜29歳のときには学業を断念しようかとすさんだ生活をしていたらしいが、素晴らしい女性と巡り合い結婚、その昔ニュートンが就いていた物理学教授職を勤める、世界的に有名な物理学者となった。MITの学生から送られた電動車椅子を駆って街を疾走し、同じく彼のために作られた発声装置を操って深い洞察にあふれた講義を続けている。

 

  いうまでもなく、ケンブリッジ大学はオックスフォード大学と並んでイギリスにおいて最も旧い大学の一つである。12世紀には既に学問の中心になっていたが、1209年にオックスフォードから多数の学生がこの大学に移り住み大学 Universitas Magistrom が急速に発達、1226年には教皇と国王から総長が承認されるようになった。その後パリ大学、オックスフォード大学にならい組織を改革、1318年には教皇によって Studium Generale として認められている。爾来学問の中心として、特に19世紀以降は数学及び自然科学の分野で優れた業績を残してきた。オックスフォード大学と同じく学寮制(College System)の大学で、大学本部(University)と24(男21、女3)のカレッジからなる。大学の管理は自治的におこなわれ、評議委員会(Senate)が最高の管理機構であるが、理事会(Regent House)が立法と行政の権限を有している。議案の作成は評議会審議会が、財務管理は財政委員会が、教授制度は学部連合委員会がそれぞれ行っている、教授・講師1230、学生10367名である(1970年、平凡社大百科事典より)。

 

  長々と街や大学について書いたのは、日本の大学とは違い、欧米の場合は街の中に大学という建物があるというのとは違い、大学の中に街があるといった方が相応しいからである。私には留学の経験はないが、先のホーキング博士の書いた啓蒙書や、同じような教授・研究者の動向を書いた書物などからそう思うからである。街のひとは街にある大学を誇りに思い、碩学の教授をまた誇りに思う。

 

  椿氏夫妻は宿を探すことになるのだが、夫人はとりあえずご主人が何かの広告でみつけたというF氏の家を訪ねてみる。そこは日本でいう新興の建売のような感じの、同じ家が何軒も並んでいるうちの一戸建の二階家であった。前庭とおそらくは内庭をもつ典型的なイギリスの住まいである。結婚して家を出て行った娘さんの部屋にご主人は下宿してるという。その部屋に入ってみて作者は驚いた。何故なら「娘さんの写真があちこちに飾られ、人形や置物すべて女の子の趣味そのままの雰囲気だったからである」ご主人が下宿先の奥さんと交渉し、夫婦でこの部屋を当分使わせて貰う事になる。この下宿屋の夫人は同じく教授をしている夫のタイプ等をするためパートタイマーとして働くとか、家事をも堅実にこなすバイタリティあふれるイギリス婦人である。そして何より合理的に家を切り盛りしていて、作者はその働きぶりに舌をまく。Fさん夫婦がカナダへ長期バカンスに行くといい、それを契機に夫婦は別の下宿を探して移っていく。ここもやはりプロフェッサー宅であったが、100年経っているという古風な赤レンガの3階建ての大きい家であった。しかし「体のよわい」作者はそこには住まず、別の安いホテルに客となる。

 

  そのうちに研究の為に来ている夫の手助けにもはならず、のほほんと過ごす自分が気恥しくなり、早めに滞在を切り上げて帰国しようと思い始めた作者はケンブリッジの町の美しさを記憶に留め置こうと、ひとりで町を歩いてみた。街で「ヒロシマ・ナガサキデー」と書いた横断幕に、政治抜きの人間らしい心に出会って、作者は感動を覚える。一方、英国というもの、このケンブリッジという町の冷酷さを感じてもいた作者はある日、町で出会った老人から、すれ違いざまに「ジャップ!」と吐き捨てるように言われてしまう。

 

  20年位前といえば、日本では高度経済成長期の2桁成長が終わりを告げ、3〜5%の低成長時代に入った頃であろうか。1970年代初頭のニクソンショック、第1次オイルショック、固定レートから変動相場制へと米ドルの基軸通貨制は転換し、引き続いておきた石油原油価格の引き上げに、1974年日本経済は戦後初のマイナス成長を記録した。先進諸国もインフレと不況が共存するスタフグレーションに見舞われた。1974年には24.5%の強インフレに日本経済は陥り、金融緩和を図うとした「日本列島改造論」も狂乱物価のうちに功を奏せず、成長神話の終わりを迎えたのである。日本の企業は省エネルギー、コスト削減に努めるとともに、海外の輸出市場の拡大、自動車・家電・電子機器を中心に効率と生産性の向上に努めた。「カンバン方式」や「カイゼン」は日本だけでなく海外でも合言葉となったかのようであった。欧州、そして特にアメリカが積極政策をとったせいもあり、品質がよく価格の安い自動車を始めとする日本製品は先進国市場で貿易摩擦を繰り返しながらも市場を席巻しつつあった。1979年には第2次オイルショックに見舞われたが、労使協調路線のもと大きな影響は被らずのりきった。

 

  しかし、海外からはこうした日本の輸出攻勢は、労働者を低賃金、劣悪な労働条件のもと働かせた結果と写ったのか、EC委員会は「ウサギ小屋に住む仕事気違い」と日本人を評した。先進国間の貿易摩擦や通貨調整の話合いの場である東京サミットが1979年に開かれるなど、日本の経済の世界市場に占める割合は巨大なものとなった。日本国憲法第9条と矛盾する日米安全保障条約の下、世界の動乱と軋みをよそに経済大国としての役割も果たさず、「安売り」で攻撃を仕掛けてくる日本人は悪がきと欧米人には写ったのかもしれない。だが、1970年までに日本の欧米へのキャッチアップの時代は終わり、自動車、家電、工作機械等の技術向上のための投資は重い負担となって、もはや右肩上がりの成長は望めない時代になったことは誰にも明確になっていた。1979年には英国でサッチャーが首相となり、1981年には米国ではレーガンが登場し、歳出削減と規制緩和政策を唱えた。福祉国家で肥大した財政負担を軽減し、いわば「小さな政府」が時代の流れとなってきたのである。

 

 作者は英国始め西洋国家の植民地政策を糾弾し、そのエリートをもって自任する権威ある人々の態度に疑問を呈する。そして明治維新以来富国強兵政策をもって急速に列強に伍そうとした日本にも疑問を呈示している。そして、「毅然として彼ら欧米人に向かってこう呼びかけた岡倉天心」を思い浮べる。岡倉天心著『茶 の 本』、第1章「人間性の茶碗」がそれである。この原書は1906(明治39)年、Okakura Kakuzou、「THE BOOK OF TEA」NY・FoxDaFeeld社から刊行されている。その内容を読んで私は明治人の気概といった外に、何か激しいものを感じさせられた。それは英語から翻訳されているせいかも知れない。とかく欧米では世人が言うように黙っていては無知に等しく、意見は堂々と主張すべきなのであろう。

 

  よく知られているラフカディオハーン始め日本を研究した外国人は多い。終戦期の日本人啓蒙あるいは占領政策を睨んでの意図もあったかもしれない、ルース・ベネディクトの「菊と刀」、東北大学に招聘され講師をしながら弓道に入門し、後に「弓と禅」を著したオイゲン・ヘリギル、日本人すら特別の研究者を除いてもはや興味を持とうとしない日本古来のシャーマニズムを、エリアーデの論考を借りながら普遍的な立場からのみでなく、実際に日本各地を訪ね歩いてフィールドワークをもしての実証的な「あずさ弓考」を著したカーメン・ブラッカー等かなりの数に上る。また、わずかの日本滞在から「無知なるがゆえに興味を深く引かれ」て、「表徴の帝国」を書いたロラン・バルトもいる。

 

  岡倉天心が「茶の本」を書いたころ、英国は万国博に当時最新の技術の粋を凝らした鉄骨構造にガラスをふんだんに用いた展示場を建設し世界にその力を示した。一方ボーア戦争に苦しめられ、その志願兵は下層労働者階級が大半を占め、しかもその半数が栄養不良からくる軍人としては肉体的不適格者だった。万国博開催に大いに尽力した独逸生まれの王も亡くなり、万国博の成功を感謝する言葉を夫に捧げたヴィクトリア女王も、その後暗い表情で人を遠ざけやがて亡くなる、正に世紀末であった。新世紀1901年を迎えながらも英国人の意気は揚がらず、食料の自給率が50%を切るなど、繁栄の裏側の反動が表面化していったようにみえる。やがて、こうした隘路からの脱出を模索中の欧州を一発の弾丸の音が駆け抜け、第一次世界大戦へと時代は向って行くのである。日本人留学生、夏目金之助は「英文学がわからぬ」と下宿に苦吟し、文部省からの給費を心理学、文学書、社会学の書物購入にあて、蝿の頭のような字でノートを取りつづけていた。その下宿に閉じこもったような彼の姿をみて、「ナツメキョウセリ」と本国に電報が届けられるに至った。

 

  果たして現在の我々は、彼らをよりよく理解するようになったであろうか?