2002年6月29日


夏目漱石の孫

ミセス 松岡陽子 マックレイン の 京都




漱石のお孫さん、松岡陽子マックレインさんが 単身 アメリカはオレゴンから来日。 4月初め東京からお電話があり、京都に足を延ばされました。 4月8日、京都駅に出迎えて、挨拶は、”はじめまして”ならぬ、”ハロー!”  なにしろインターネットによる「メル友」です。 それからタクシーで 蹴上の都ホテルへ まいりました。

 

ご覧のような身軽な活動的スタイル。荷物は手前に見える手つきカート1個。まずはフロントでサインを。それからロビーで一息つきました




私たちの最初の出会いは、漱石を慕う人々の集いを昨年催した時のことでした。ヤフー掲示板に「夏目漱石が好きなかたへ」というトピを立ち上げたのは、ほぼ2年前。頼りないトピ主ながら、皆さまの投稿をいただくうちに、ぜひ漱石の墓参をということを提唱し、実現したものでした。




拙サイト所載『夏目漱石を慕う人々の集い』





漱石の第1回の京都訪問は明治25年で、親友の正岡子規との二人連れでした。
2回目が明治40年、3回目が明治42年、4回目が大正4年です。



鏡子夫人は漱石亡きあと、京都へ遊びに来るのが楽しみだったようです。




レゴンからの
ール2001/12/07
おっしゃる通り、祖母は豪胆な人だったと思います。母に言わせれば、だからこそ漱石のような非凡な人との難しい結婚に耐えられたのだ、自分だったらとても出来ないことだったと言っていました。これは本当のことかもしれません。私も春の京都を今から楽しみにしております。

メール 
京都は祖母がいつも都ホテルに泊まって楽しんだので、私にとっても懐かしい所です。
「都踊り」はとても楽しみです。祖母も毎年春行ったように記憶しております。







この4月からアメリカ資本になった都ホテル 正面ロビー。さっそく客人はお部屋でお召し替え。ウーン、脚線美が漱石お孫さん。こけし人形的ズンドーがわびすけ。




7階はスイート客室のロビー。カード無しではエレベーターにも乗れません。こんな客室は、これまで無縁で〜




 『入社の辞』より  夏目漱石

 いかな漱石もこう奔命につかれては神経衰弱になる。其上多少の述作はやらなければならない。酔興すいきょうに述作をするからだと云うなら云わせて置くが、近来の漱石は何か書かないと生きている気がしないのである。夫丈それだけではない。教える為め、又は修養の為め書物も読まなければ世間へ対して面目がない。漱石は以上の事情によって神経衰弱におちいったのである。
 新聞社の方では教師としてかせぐ事を禁じられた。其代り米塩べいえんの資に窮せぬ位の給料をくれる。食ってさえ行かれれば何を苦しんでザットのイットのを振り廻す必要があろう。やめるとなと云ってもやめて仕舞しまう。めた翌日から急に脊中せなかが軽くなって、肺臓に未曾有みぞうの多量な空気が這入はいって来た。
 学校をやめてから、
京都へ遊びに行った。其地で故旧と会して、野に山に寺に社に、いずれも教場よりは愉快であったうぐいすは身をさかしまにして初音はつねを張る。余は心を空にして四年来のちりを肺の奥から吐き出した。これも新聞屋になった御蔭おかげである。

初出:「朝日新聞」
   1907(明治40)年5月3日





陽子さんのジュニアスイートのルームで。
京都訪問とお聞きしてトッサに予約したのが都ホテル、この部屋がたった一つ空いていたのでした。ま、よろしおす、あの世にいる親に孝行すると思ったらなんのこともおへん(笑)。




軽快でドレッシイな雰囲気もアメリカファッション。



窓の外は一面みどりの樹木。






『京に着ける夕』  夏目漱石

子規は血を嘔(は)いて新聞屋となる、余は尻を端折(はしょ)って西国(さいこく)へ出奔(しゅっぽん)する。御互の世は御互に物騒(ぶっそう)になった。物騒の極(きょく)子規はとうとう骨になった。その骨も今は腐れつつある。子規の骨が腐れつつある今日(こんにち)に至って、よもや、漱石が教師をやめて新聞屋になろうとは思わなかったろう。
漱石が教師をやめて、寒い京都へ遊びに来たと聞いたら円山(まるやま)へ登った時を思い出しはせぬかと云うだろう。新聞屋になって、糺(ただす)の森(もり)の奥に、哲学者と、禅居士(ぜんこじ)と、若い坊主頭と、古い坊主頭と、いっしょに、ひっそり閑(かん)と暮しておると聞いたら、それはと驚くだろう。やっぱり気取っているんだと冷笑するかも知れぬ。子規は冷笑が好きな男であった。


暁(あかつき)は高い欅(けやき)の梢(こずえ)に鳴く烏(からす)で再度の夢を破られた。この烏はかあとは鳴かぬ。きゃけえ、くうと曲折して鳴く。単純なる烏ではない。への字烏、くの字烏である。加茂(かも)の明神(みょうじん)がかく鳴かしめて、
うき我れをいとど寒がらしめ玉うの神意かも知れぬ。
 かくして太織の蒲団を離れたる余は、顫えつつ窓を開けば、依稀(いき)たる細雨(さいう)は、濃かに糺の森を罩(こ)めて、糺の森はわが家(や)を遶(めぐ)りて、わが家の寂然(せきぜん)たる十二畳は、われを封じて、
余は幾重(いくえ)ともなく寒いものに取り囲まれていた。
  
春寒(はるさむ)の社頭に鶴を夢みけり





平安神宮にはしだれ桜が満開でした。東京では桜はみんな散った後で、日本の桜は諦めてました、と陽子さん。やはり、京都のほうが気候が寒いのでしょうか。











平安神宮からタクシーで祇園甲部歌舞練場へ。この辺り なぜか競馬の馬券売り場があります。こちらのほうが賑わっている今の京都です。





茶券つきの席は もっと右 入り口まちがえました。


花町は塀も はんなり



都踊りの待合。



万亭(一力)




歌舞練場の庭園


同席の方がシャッターを押して下さいました。




『虞美人草』  夏目漱石

「美しいな」と宗近君はもう天下の大勢(たいせい)を忘れている。京ほどに女の綺羅(きら)を飾る所はない。天下の大勢も、京女(きょうおんな)の色には叶(かな)わぬ。
「京都のものは朝夕都踊りをしている。気楽なものだ」
「だから小野的だと云うんだ」
「しかし都踊はいいよ」
悪(わ)るくないね。何となく景気がいい」
「いいえ。あれを見るとほとんど異性(セックス)の感がない。女もあれほどに飾ると、飾りまけがして人間の分子が少なくなる」
「そうさ
その理想の極端は京人形だ。人形は器械だけに厭味(いやみ)がない」
「どうも淡粧(あっさり)して、活動する奴が一番人間の分子が多くって危険だ」
「ハハハハいかなる哲学者でも危険だろうな。ところが都踊となると、外交官にも危険はない。至極(しごく)御同感だ。御互に無事な所へ遊びに来てまあ善(よ)かったよ」




茶席 祇園のきれいどころの お接待



舞妓さん その姿勢も 舞でっしゃろな




芸妓さんと舞妓さん、
あたまも衣装もちがいますえ。




点前には、まず道具を運びます。




お点前さんと、お運びの役 半東さん。





お点前はきっちりと 長年 裏千家の業躰(ぎょうてい)さんが 指導をされています。



お点前の芸妓さん、「福奈美」 と
色紙のかんばん。



舞台があくまえに、客はお茶席で茶菓の接待を受けます。それが済むといよいよ都踊りへ。

緞帳


緞帳があきました。ここからは撮影禁止です。素直にあきらめました。
一時間足らずの間でしたけれど、陽子さんは品よく声をあげて、よろこばれました。








歌舞練場からすぐ近くの建仁寺へ。建仁寺垣の前で語りつつ 「漱石はここで こう言ってますねぇ。」




漱石は京都へ来てはいろんな情報を得て、
小説に取り入れました。




『我輩は猫である』にも出てきます
「建仁寺垣」。







『虞美人草 』  夏目漱石


 居は気を移す。藤尾の想像は空と共に濃(こまや)かになる。
「小米桜を二階の欄干(てすり)から御覧になった事があって」と云う。「まだ、ありません」
「雨の降る日に。――おや少し降って来たようですね」と庭の方を見る。空はなおさら暗くなる。
「それからね。――
小米桜の後(うし)ろは建仁寺の垣根で、垣根の向うで琴の音(ね)がするんです
 琴はいよいよ出て来た。糸子はなるほどと思う。小野さんはこれはと思う。
「二階の欄干から、見下すと隣家(となり)の庭がすっかり見えるんです。――ついでにその庭の作りも話しましょうか。ホホホホ」と藤尾は高く笑った。冷たい糸が辛夷の花をきらりと掠(かす)める。





茶碑の前で。 建仁寺開山 栄西禅師がもちかえった茶の種と禅茶の記念碑です。




しだれ桜 じっさいはきれいでしたのに・・・。
銀塩カメラも これでは・・・(泣)。






8日の見物は ここらで ひとまず休止。 タクシーでホテルへと。夜の食事には 元オレゴン大学でマックレイン陽子さんの助手をつとめた男性が 奥さん同伴で 訪ねてくるそうです。 きっといいプロフェッサーだったのでしょう。 
さて、明日の京都見物は いずこへ?





『草枕』

茶と聞いて少し辟易(へきえき)した。世間に茶人(ちゃじん)ほどもったいぶった風流人はない。広い詩界をわざとらしく窮屈に縄張(なわば)りをして、極(きわ)めて自尊的に、極めてことさらに、極めてせせこましく、必要もないのに鞠躬如(きくきゅうじょ)として、あぶくを飲んで結構がるものはいわゆる茶人である。あんな煩瑣(はんさ)な規則のうちに雅味があるなら、麻布(あざぶ)の聯隊(れんたい)のなかは雅味で鼻がつかえるだろう。廻れ右、前への連中はことごとく大茶人でなくてはならぬ。





明くる日の4月9日、今日庵のお稽古を済ませてから、午後、陽子さんと待ち合わせました。訪問先は、裏千家宗家・今日庵です。すでにご宗家のお許しもいただき、若宗匠との三者会談(?)も予定! お約束の時刻 3時。 無事その時がやってまいりました。裏千家宗家の兜(かぶと)門を 厳かなきもちで 入りました。





今日庵 突き上げ窓




露地 中門





おそれおおい処・・・おん祖堂(利休堂)
業躰(ぎょうてい)のお方のご案内を戴き、身が引き締まります。といいながら トッサにパチリ。お家元さま、お許しを!




ふたりで合掌!利休居士立像 
原寸大の由・・・
大男でおわしたとのお話・・・。






宗旦好みの欄間にみとれる陽子さん。





そこは貴人畳、あどけなく坐っていらっしゃいます。






椅子席 ご自分のカメラを取り出され・・・。
撮れてましたか?





おいとました後に、ピンボケ記念。シャッター押してくださった方。これ私の得意わざでっせ。






『漱石山房の冬』  芥川龍之介


又十月の或夜である。わたしはひとりこの書斎に、先生と膝をつき合せてゐた。話題はわたしの身の上だつた。文を売つて口を餬(こ)するのも好(よ)い。しかし買ふ方は商売である。それを一々註文通り、引き受けてゐてはたまるものではない。貧の為ならば兎(と)に角(かく)も、慎(つつし)むべきものは濫作である。先生はそんな話をした後(のち)、「君はまだ年が若いから、さう云ふ危険などは考へてゐまい。それを僕が君の代りに考へて見るとすればだね」と云つた。わたしは今でもその時の先生の微笑を覚えてゐる。いや、暗い軒先の芭蕉(ばせう)の戦(そよ)ぎも覚えてゐる。しかし先生の訓戒には忠だつたと云ひ切る自信を持たない。
 更に又十二月の或夜である。わたしはやはりこの書斎に瓦斯(ガス)煖炉の火を守つてゐた。わたしと一しよに坐つてゐたのは先生の奥さんとMとである。先生はもう物故(ぶつこ)してゐた。Mとわたしとは奥さんにいろいろ先生の話を聞いた。先生はあの小さい机に原稿のペンを動かしながら、床板(ゆかいた)を洩れる風の為に悩まされたと云ふことである。しかし先生は傲語(がうご)してゐた。
「京都(きやうと)あたりの茶人の家と比(くら)べて見給へ。天井(てんじやう)は穴だらけになつてゐるが、兎(と)に角(かく)僕の書斎は雄大だからね。」穴は今でも明いた儘である。先生の歿後七年の今でも……




このあと、陽子さんのご希望で、拙宅に立ち寄りました。おっしゃる通り、たしかにうちなんて 漱石山房のあの広さとは まるっきりちゃいますわ(笑)。写真は広いように見えましても 実際はせせこましいんです。ま、露地だけ歩いてもらい、それから駅へ直行。すぐ金沢にいかれるとか、講演等のスケジュールがぎっしりのようでした。




わが家の庭で何より一番の自慢はこの野良ばえの大木です。この木の実を食べに野鳥がやってきます。客人は飛び石をきれいに踏んで歩かれました。三脚でも出して撮るべきでしたねえ。あ〜、あとの祭り。




野鳥がつついた穴ですえ。二つの目みたいでしょ。石灯篭、陽子さんはとくにお好きのよう。「主人(アメリカ人)がセメントで作ってましたよ。こうしたものが好きな人でしたねえ!」






漱石がへきえきした茶と茶人 今回はお孫さんに語っていただくことに相成りました。
漱石せんせ、 もう後戻り できしません。
あぶくを飲んで 結構って いわはりましたら ?
ここに 証拠写真 ございます
はい、 まぎれもない せんせのお血ひかはった ご立派な学者さんです。
お茶の若宗匠と それは気が合わはったようでした。
ほんまに たのしそうですなあ(笑)。





裏千家又新(ゆうしん) 椅子席



陽子さんは京都駅で、私の出したゲストブックに、万年筆で書いて下さいました。

昨日八日も素晴らしい一日でしたが、今日はまた忘れることのできない午後を過ごさせて頂きました。裏千家の若宗匠様に直接お目にかかり、いろいろ楽しいお話ができ、こんな夢のような事は考えもしませんでした。殊に私はお茶のたしなみもない不器用な人間なのに、申し訳ないと思いましたが、そんな事に関係なく文学の話などでき、これほど楽しいひと時はありませんでした。本当に本当に有難うございました。京都の四月は一生忘れません。



若宗匠がお出ましになられた、この写真。 撮るまえに 薄茶をいただきました。 そのあと 記念撮影をいたしました。陽子さんのおつむが すこーし傾いていらっしゃるところ、いいショットではないでしょうか。 この角度がなんともいえないと 後日 かなり話題に(笑)。 補足いたしますと、カメラのシャッターを押してくださったのは 今日庵業躰・中村宗石さん。「実はわたしも ソーセキなんです。」と おっしゃって・・・楽しく案内してくださいました。なお、当日、お家元は海外布教へ。国内では若宗匠の厚いおもてなし、つつしんでお二方に、御礼申し上げます。

                                              椿 わびすけ




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