2001年11月7日
夏目 漱石 に 親しむ 人々の 集い
漱石『心』に出てくる雑司が谷霊園。 漱石のお墓は 1種14号 1側 に ありました。 10月29日、京都から 東上いたしまして、私の目指しましたのは、まず ここでございました。 はい、念のために申しますと、上京っていうのは、京都へきはることでは なかったでしょうか。 この度、ヤフー「漱石」トピのオフ会なる集まりで みなさん あちこちからお出ましになられました。 皆さま 初のおめもじです。 |
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墓の形は 安楽椅子を模したものとか、 めずらしいですね。 大きな花崗岩で、背もたれにあたる正面には 漱石が信頼した友人 菅寅雄の雄渾な筆で 漱石と 鏡子夫人の 戒名が 彫られています。 文献院古道漱石居士 圓明院清操浄鏡大姉 水を入れる場所には、夏目の二字。 |
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松岡譲の『夏目漱石』の最終ページからの引用 (河出書房、市民文庫、昭和二十八年版) 十二月}二十八日に雑司が谷の墓地に愛子ひな子の遺骨にとなりして埋葬された。 一周期の時新しく広い墓地にかへ、墓を建てて改葬された。 墓は未亡人の妹婿鈴木禎次の設計になり、新様式の石塔である。 字は漱石の親友菅虎雄の筆になった。この墓地も落合火葬場とともに彼の作品の中に 描かれた有縁の地であるのである。墓地は『こころ』に、火葬場は『彼岸過迄』に。 |
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白菊、黄菊、赤小菊、うす紫のクジャクソウの花束を 一対 お供えして・・・。 花屋さんがシャッターを押して下さいました。 このお墓は 背後に面する処が舗装道路になっており、通りからは漱石の墓と わかりませんね。 |
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お墓の背面には 大正 五年 十二月九日 没 俗名 夏目 金之助 明治四十四年 十一月二十九日没 俗名 夏目ひな子 夏目金之助五女 (上記二つの中に はさむようにして 小さく) 昭和三十八年四月十八日没 俗名 夏目キヨ。(注、夫人の実名) お墓ができた当時は、正面の未亡人の戒名は朱塗りであったようです。生存の場合の倣いですね。 今はゆったりと 安楽椅子でくつろいで おわします 漱石先生ご夫妻。 このお墓の近くに夏目房之助さんがたてられた小さい墓が。ご遺族の奥ゆかしさを想いました。 |
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後から おいでになりました方々と ご一緒の 記念撮影。 カメラのシャッターをおされたのは 影武者のまつさん。 一同 漱石山房 今は名を改め 漱石公園になっている処へ 出かけました。 途中、夏目坂を 上がり 下り して 歩きました。 |
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新宿区 漱石公園 |
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新宿区って 管理してはりますのん?これで。 |
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どれどれ 漱石山房って か? 近所づきあいって あらぁな。 ま、同じ町内だ、せっかくだ。 ウロウロしてるじゃ ないか。 つきあって やろうぜ にゃ♪ |
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茶トラの君 |
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見知らぬ私なのに 親愛の情を示してくれた 茶トラちゃん! |
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その目 撮ろうとして、横向かれたけれど・・・おおきに! |
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通称 猫塚 漱石没後に 遺族が家で飼っていた猫、 犬、小鳥の供養塔。 鏡子夫人が 建てた ものである。 昭和28年の漱石の命日に ここに復元された。 |
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新宿区指定史跡 夏目漱石終焉の地 新宿区早稲田南町7番地 |
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この一帯は、漱石が晩年の明治40年から大正5年12月9日に死去するまで、住んだところ で、「漱石山房」と呼ばれていた。漱石はここで、『抗夫』『三四郎』『それから』『門』などの 代表作を発表し、『明暗』の執筆の半ばに世を去った。 以上の講釈は、 漱石公園の看板より。 |
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秋の日はつるべ落としとか、夕方ちかく 漱石公園の高い標識、 空。 午後6時半 夕食会は六本木とか。 皆さんに従い いとも神妙に 馳せ参じました(?)。 |
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新潟の名酒 「越しの寒梅」が 竹筒に入って います。 まつさんのおごりでした。 いつの世でも テレてはるのは 男性? たいせつなこと。 今日の主賓が いらっしゃいます。 アメリカはオレゴン州から 来日された 漱石のお孫さまで ございます! さる大学での講演にお見えになりました オレゴン大学名誉教授・松岡陽子マックレインさん! |
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ようこそ! マックレイン陽子さん。 漱石先生のお話も たのしく 聞かせていただきました。 みんながあなたに 惹きつけられました。 感謝! Sさん初め 皆さん 平和な一日、よき夕べをありがとう! |