2004年11月26日
ならいごといいますと よみかきそろばん だけやおへん
茶のししょうかて 名人 達人もあれば わびすけみたいに たよりないもんも いてます
ながねん そえんであっても ふっとおもいだし また入門しとうなる そういったことはあるんですな
これはきとくな お弟子さんの お話です
〜椿 わびすけ〜
裏千家今日庵 許状 拝受 30年ぶりに! |
なにごとも にんげん せいこうすると 増上慢になるきらいが ありますよって
あたま下げて ならいごとする そら つづいていけたら たいしたものですえ〜
教えたいうても あいては 古書画の名だたるプロや 昔からこっちが教えてもらうこと 多かった
ただ このおでしさん あきんどのまっすぐな心を もってはりましたな
「あんさんが持たはったら どんなええお茶碗でも みそ汁ちゃわんにしか 見えしません。」
こう申したのは 可愛げない おんな師匠でしたが ただ うなずいておいでやした〜
ぶんしょうも それは りっぱにかかはるお方でっせ ごじぶんの著書もおありです
5がつころでしたか 以下のげんこうを およせ いただきました
田中 周二 (株)思文閣代表取締役会長 人生に於いて一期一会との言葉がありますように、椿先生との出会いがその後の生き方に多くの影響を頂いたように思っている今日です。 昭和四十一年、その先生が突然に若い女性を連れてこられ、私共の店にお見えになりました。学者らしい謹厳な雰囲気ある先生の対極に後ろにおられる女性は新しい秘書の方かと思ってよく見直しますと、知性溢れる顔立ち、気品と清潔感ある美しい妙齢の娘さんです。 恐る恐るどの様な方ですかと尋ねますと、新しい禅の講義を教える弟子であるとの事でした。この初会の印象の娘さんが後に親しくして頂いた椿伊津子さんです。 椿さんは土地の名家のお生まれと思います。後年私共が仕入れがあったとき、椿さんの実家は何処あたりかと思い帰ることがありました。その様な形で年月が過ぎて行きました。 その後、伊津子さんが大学の哲学の先生と結婚されたということを風の便りに聞きました。どうされているかいつも心の中で想っておりました。
昭和五十年、百万遍のビルが建ったときには思文閣茶道部として披露の茶会もして頂きました。私の家内ほか家族一同にも随分とお茶の世界を教えていただいた事と思っております。 その間に私どもの社員で比較的旧いK君に見合いの話が持ち上がりました。何か南の電話局に勤めている娘さんとの事で、やはり椿さんのお弟子さんのようでした。私も連れて来られた方なので一度お会いしましたが、美しい娘さんでこの方ならばうまくいくのではないかと思っておりましたが、K君も同じく見合いの上即決定でした。現在K君の妻ですが二女に恵まれ幸福な家庭を築いております。 私は当時、色々仕事が重なりあちこち奔走の時でした。その後先生もご主人との家庭と茶道の両立でお忙しい日々だった様です。また少々疎遠の時もありましたが、心の中ではどうしておられるか時々思い返しておりました。 話は少し戻りますが、先年久しぶりにお見えになり、何か夏目漱石の書いた作品がありますかと申されたので、書の掛け物をお見せいたしましたところ、気に入っていただきました。 ことし平成十六年四月二十一日と二十二日に奈良の中宮寺に於いて、お茶会をされるお手紙を頂きました。家内と一緒に二日目の日に参りましたところ、中宮寺山吹茶会 椿わびすけ席に案内されました。大書院正面の床の間は、裏千家当代・坐忘斎家元の書かれたものでございました。待合には、漱石の軸が掛けてありました。先生に聞きますと、漱石の書に柳の語句がありましたので、四月にあわせて掛けられたとのことでした。 中宮寺・本殿の落ち着いた部屋で椿先生みずからのおもてなしでいただいた一服は、俗の世界におります私に断ち切ったひとときの心休まる静かな時間でありました。 久方ぶりに心洗われる中宮寺だったと家路に着きました。 |
ほんてん |
ながさわろせつ画 |
せんちゃの図のよう |
ちゅうごくの きっさふうけい |
こどもたち そうだんちゅう |
ぶんぼうぐも ありまっせ |
ビルのなかの ちゃしつ |
年季いりのカップル ふしょうふずい |
なごりのすいふよう 家から じさんしました |
10月のけいこ 菓子 末富 やえむぐら 抹茶 一方堂 雲門の昔 |
びじゅつかんでは沖縄の 織物展示 |
これは8月の時 トップとおなじく |
おかげさま 有ること難き ご縁 なれば これからも 学ばせていただきます よろしゅうに〜 |