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十月といっても 黄葉は まだまだです。
ただ 天高く 白雲は悠々と ながれます
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まず 待合に ここで大変な 掛け物に出会いました
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本席 床 坐忘斎家元 一行
若々しく静かな 書風を 拝しました。
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待合掛け物 拡大図
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読み下し文
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席主 黒田正玄さんは千家十職のお一人。伝統ある竹工芸作家。
天正6年〜承応2年(1578-1653)。越前の人。小堀遠州に茶湯を学び、日参正玄の異名を得た。
黒田庄兵衛から柄杓作りを伝受し、千家の柄杓師となった。子孫代々業を継ぎ12世に至る。
待合を出て 露地を経て 茶室へ。 ご正客ご連客 そのなかで お話もできました。
待合掛物は お使いになる人を得たという印象を 受けました。
私 筆者は宙宝さん。でも、歌を詠まれた方々の三者三様の個性が出ていますね。
主 ありがとうございます。それはどのような…。
私 玄旨法印・幽斎は 自分亡き後の和歌と茶の湯を心配し何か願ったようですね。
「わが後の世をすくひたまへや」 と。
沢庵和尚は 出家ならではの感慨。直ぐなる身をもちながら 自分をゆがめる覚悟。
「われとゆかめる竹の節かな」と。
遠州のは 行政の長(作事奉行)として 人の処世術を見ているようです。
「人にまかせてゆがむなり これも直ぐなる竹のこころぞ」と。
画賛の絵は 利休が好んだ 蟻ごしの高い茶杓を ほうふつとする 茶杓でした。
竹の持つ まっすくな心をたたえている それぞれの歌に 日本の文化を思うのでした。
主は謙虚に耳を傾けてくださったように 思いました。
が、これはあくまで 私の独りよがり(笑)。
席中にはロータリーのお歴々がヅラリ 内心あきれていらしたことでしょう。
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細川藤孝 幽斎 法印玄旨
天正10年織田信長が本能寺で薨(みまか)ると細川藤孝は髪を落し、玄旨法印幽斉と改めた。
若くして歌道や連歌の道を学び、「古今伝授」を受けて和歌の伝統を継ぎ、茶道、料理、音曲、
刀剣鑑定、有職故実などあらゆる学問、芸能の奥義を極めた。
沢庵和尚 (1573〜1645)
天正元年、兵庫出石の生。沢庵は29歳の時、勅令によって大徳寺の住持に出世するも、
3日間で野僧に徹すべしとして退山したという。寛永4年(1627)、紫衣事件が起こる。
沢庵は反骨の禅僧として活動し、その遺言も「自分の葬式はするな。香典は一切もらうな。
死骸は夜密かに担ぎ出し後山に埋めて二度と参るな。墓をつくるな。朝廷から禅師号を受けるな。
位牌をつくるな。法事をするな。年譜を誌すな」であった。
小堀宗甫 遠江守政一(とおとうみのかみまさかず)
1608年に普請奉行として駿河城を築城した功で遠江守に任ぜられ、二条城、大阪城、江戸城西丸など
作事(さじ)奉行としても活躍した。茶道を古田織部に学び、遠州流茶道をおこした。
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点心席 広間
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みかえり草
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点心席に まいりますと 今月は特別に 瓢亭さんの縁高点心でした。
席主のお心入れが そこはかとなく 感じとれるのでした。
作家ではなく 自分は千家十職の職人だと 正玄さんは 無言で
語っていらっしゃるようでした。 客への礼が 長年の研鑽によって
にじみでているような そうした感銘を 私は受けました。
みなさま
お相伴 ありがとうございました。
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外に出れば 遠山も 照り葉のかなた
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10月9日 京都美術倶楽部 松庵茶会(旧時雨会) 十月例会
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かまきり 香合
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シロホトトギス サワキキョウ ノギク
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玄々斎 三夕 竹 花入
ご存知 三夕(さんせき) とは 「秋の夕暮れ」でおわる 三つの歌のことですね。
舟の形をした花入が 「浦のとま屋」
二重切りの花入が 「槙(まき)たつ山」
稲塚の 花入が 「しぎ立つ澤」
全部書きますと 興が薄くなりますから 歌と作者は おまかせで〜す(^.^)。
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ここでも竹が生きています。竹を切ったのは正玄ではないでしょうか。
茶道の場合 家元が銘をつけられ 箱書きをされたならば
その宗匠の作として 言いならわされてきました。
茶杓 花入 蓋置き しかり…
竹は 或る意味で 時として無に徹する 職分かもしれません。
裏千家宗家 稽古場
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竹の柱は 行台子 をはじめ こうした 五行棚もあります。
宗家 槍の間での 侘びのしつらい
夏の名残り 風炉の時期も あとわずかで おわりますので
悪いこととは知りながら そっと 撮らせていただきました。
あ〜 罪は もっと 重いぞ〜ですか〜
ごめんやっしゃ〜〜〜〜
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