2004年2月5日

第八回  撮影者 関 健一 さん (URL)

東京大学出身のプロ写真家・関健一さんに 昨年からお願いしておりましたカメラさんぽ
今回 撮りおろしの写真多数と 漱石文学の綿密な探訪記を お寄せいただきました
バナーもご厚意により いろいろ頂戴いたしましたことを ふかく感謝いたします
椿 わびすけ



c2004 関 健一

  小説の主舞台になるのはその頃の本郷区、現在の文京区本郷の東京帝国大学だが、当時学部という呼び方は無く、法科大学、医科大学、工科大学、文科大学、理科大学と称し、おのおの大正8年(1919)に法学部、医学部、工学部、文学部、理学部と改称された。なお農科大学は当時、目黒区にある現在の東大駒場キャンパスに有り、後年現在の文京区弥生にあった第一高等学校と校地を交換した。 漱石は明治36年(1903)4月から明治40年(1907)3月まで東京帝国大学文科大学英文科の講師ならびに第一高等学校講師を兼任して勤めていた。三四郎は辞職の翌年の明治41年(1908)9月から12月まで朝日新聞上連載される。今、三四郎を読みながら本郷を歩くと、漱石はかって知った帝大校内を正確に描写しているように感じられる。
 小説の時代は、2章に”ベルツの銅像の前から”とあることから、この像が建てられたのが明治40年(1907)年4月なので、書かれたのと同時代と思ってよいだろう。東大本郷キャンパスは戦災を受けなかったが、当時の建物で残っているものは、文政11年(1828)に建てられた赤門と、今は小石川植物園に移築された明治9年(1876)の東京医学校本館しかないのは寂しい限りだ。
 初冬の一日、美喜さんと三四郎の跡を尋ねた。あいにく小雨が時折降る天気だったが、遅い黄葉が残っていた。

 

 
 



 


作者 せき
漱石の話ありがとうございます。若い時読んだ門やそれからを、この頃再読しています。
水村美苗さんの続明暗も読んでみました。、よく様式を似せてあるけれど、心理の切り口が
女性的だなと思いました。一番印象に残っているのは彼岸過ぎまでとか行人です。

わびすけ
ところで、東京大学と漱石というようなテーマはいかがでしょう?

漱石と東大とのお話、調べてみると帝大と一高で教えていたのは1903〜7とのこと
その頃東大にあったもので今に残っているのは、加賀屋敷以来の三四郎池と赤門であと何も
ないのですよね、僅かに隣の岩崎邸が復元されて公開されているだけ。
写真にするには難しそうですね。しばらくアイディアを練りますのでまたメールさせてください。

旧加賀邸の懐徳館は本郷キャンパスの中で唯一空襲で炎上、庭園だけは懐徳園として
残っているとのことでした。本郷キャンパスにあった建物で明治40年以前のもので残って
いるのは小石川植物園に移築した明治9年建立の旧医学部本館で今は重要文化財です。

在漱石旧居は名鉄のやっている明治村にあるのですね。
去年名古屋ロケの時撮りに行けば良かった。早稲田の住居跡も行ってみます。

おそれいります。
それから関さんの自画像は拝見できませんでしょうか。関心を持つ方が多いと思います。

ろくなのが無いので誰かに撮ってもらわないと。

三四郎を歩く、やっと完成しました。色々な場所に由来や年号の調査に時間を取られました。
3枚のページに渡っていますが、最初のインデックスページからリンクを付けてあります。
バナー等必要でしたら作りますので。
セルフポートレートは明日教えている社会人学生が来るので撮ってもらってから選びます。

ありがとうございます!
モデルの女性の知的なうつくしさも風景と調和して、華を添えていると思います。

テーマとしての東京大学が見事に浮き彫りになっており、的確な文章にも感服いたしました。
全体の完成は2月になってからでも結構でございます

バナーを作りました。同じ物をサイズを変えて2ファイルあります。いかがでしょうか。
”心”のカバーから引用したデザイン、漱石の文字は”吾輩は猫である”上巻表紙から引用です。
勿論本物でなく復刻版からの引用ですが。

とっても嬉しいバナーです!さすがに品格がございますねえ。
それから背景の画像も、漱石が『こころ』で自らデザインした装丁でございますよね。
色調は変えていらっしゃいますけれど、お心入りのページ作りで感激しております。

遅くなりましたが、授業の後の飲み会で受講生が撮ってくれた写真を2枚添付します。
お恥ずかしい限りです

肖像写真ありがとうございます。
貴サイト読書のページを拝見しておりますので、お人柄はやはりと、納得しました。
さすがアーチストのお作品でございます。貴重なよい勉強をさせていただきました。






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