2001年11月20日

三 四 郎 池



東京にて夏目漱石をしのぶ会合の翌日
三四郎池をひとり散策。10/30
                               

ここは池への入り口


 
三四郎池の正式名称は、「育徳園心字池」。山手台地を浸食した谷に湧出する泉である。この池は、江戸時代は加賀藩邸の庭園の一部だったが、明治に入って東京帝大に移管され、後に夏目漱石(一八六七−一九一六)の小説『三四郎』にちなんで、「三四郎池」と呼ばれるようになった。

育徳園は江戸で第一の名園

加賀藩は、天正九年(一五八一)八月、織田信長が藩祖、前田利家(としいえ)に能登一国を与えたことに始まる。現在の赤門から池にかけての一帯の地は、大坂の役後に将軍家から賜ったもので、この屋敷は、明治維新後に大部分が新政府の官有地に転ぜられるまで存在していた。

 育徳園は、寛永十五年(一六三八)、豪奢で風雅を好んだという四代目藩主、前田利常の時に大築造されたという。彼の死後、前田綱紀(つなのり)が加賀藩の五代目藩主だった時にさらに補修された。当時は江戸諸藩邸の庭園中、第一の名園とうたわれた。園中に八景、八境の勝があって、その泉水・築山・小亭等は数奇を極めたものだと言われている。池の形が「心」という文字をかたどっており、「育徳園心字池」という。

 だが、この屋敷は安政二年(一八五五)の大地震で大損害を被り、明治元年(一八六八)四月の火事で大部分の建物が類焼して、無残な姿になってしまう。明治七年に東京医学校(本学医学部の前身)へ移転される直前の敷地は、「荒漠タル原野」と化していたという。

 だが、度重なる災害の中でも、育徳園の池と樹木は残存していた。現本郷キャンパスの建物の配置は、この旧加賀藩邸の敷地の配置に大きく影響されている。育徳園の池は現在の三四郎池であり、その東に広がる馬場は明治三十二年頃拡張されて現在の運動場となった。


  参考文献:東京大学百年史、東京大学本郷キャンパスの百年





石を渡って 進むこともできそう。 鴨がいました。 鯉もいました。






かの 純朴な青年 三四郎は いずこへ。





セピア色に けむる 明治の時代。 
「迷える羊」(ストレイシープ) 恋に迷う三四郎の 姿を 探しました。





紅葉には早く、黄ばみかけた葉の色、草のいろ。


 赤門をはいって、二人(ふたり)で池の周囲を散歩した。その時ポンチ絵の男は、死んだ小泉(こいずみ)八雲(やくも)先生は教員控室へはいるのがきらいで講義がすむといつでもこの周囲をぐるぐる回って歩いたんだと、あたかも小泉先生に教わったようなことを言った。
                        
        夏目漱石 『三四郎』 三 より






水面にあるのは、うたかた。 あわれ 人間の落とした gomoku.
水 黒くにごり・・・水底には hedoro.





左端から 三四郎池を出ると、東大の学舎。歩いてくるのは、広田先生?






東大病院






患者用の 車、車、車。 つぎつぎと! 
バイクで 駆け抜けて いく 青年。
・・・もしかして 想い人は このなか に?



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