2005年3月6日
大橋茶寮 東京 港区 虎ノ門
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平成17年2月24日 正午の茶事 亭主 守貧庵 大橋 宗乃さま
正客 椿伊津子(京都市) 次客 河野通忠氏(水戸市) 三客 だてさま(松江市)
待合から腰掛に移り、ご亭主のお出迎えをはじめて受け、無言で一礼。緊張の一瞬。 ついでご亭主はつくばいの水にて手と口をすすぎ、にじり口から茶室に入られます。 露地ぞうりをそろえて。 |
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つきあげまど |
宗乃さま |
茶室内はこの自然光 のみ |
濡れ釜 たっぷりと水が入って |
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鏡釜 裏千家伝来 五徳 鴨足 酒井家 |
香 坐忘斎家元好 坐雲 |
炭取はお櫃形 一部桜材 一閑作 |
うろこ板ちかく 梅香合 玄々斎在判 |
初入り、初座。先ず床を拝見。大徳寺清巌和尚の一行「大道心」。善智識の人格に触 れます。点前座にすすみ 釜・炉中を拝見。このときはたっぷりの水に濡れたままの 「濡れ釜」の風情。釜の中には、汲み上げた名水が入っているのです。湯を入れ湯気 が出ているような釜ではありません。初炭点前によって炉中の種火に炭がおかれます。 |
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鏡釜 淡々斎宗匠が昭和36年発行の『今日庵歴代好物集』に次のようにお書きになってい ます。 「一燈好 鏡釜 この蓋は一燈の母の遺品であり、この母はすなわち、原叟の妻、良 休宗佐の娘さんです。鏡の文字も良休の筆跡で、娘のために作られた鏡と思われます。 むかしの婦人は鏡を女の魂のように大切にし、これをもらった、末子の又玄斎はこれ を蓋にして、大西浄元に釜を造らさせて大事にされ、それ以後今日庵に伝来しました。 鏡にある年号、天和二年は良休三十三歳のとき、箱書きの宝暦五年は一燈三十七歳の ときになります。」 (良休宗佐とは、表千家隋流斎宗佐のこと。) この釜を拝見して深い感銘を受けました。鏡の文字は「心有明鏡台 天和二年壬戌二 月吉日」とあります。私は、心は明鏡台のごとし、と言ったかの神秀上座と六祖慧能 との問答をほうふつといたしました。そして二月のこの茶事にあわせてこの釜を使用 されたご亭主さまのお心が、あつく伝わりました。 環付がまためずらしく、一方が鬼面、一が方遠山となっています。今日庵にある鏡釜 は浄元の作。こちらは浄雪作。親子2代の作品ということになりましょうか。古鏡蓋 の釜はいろいろと知られていますが、こうしたエピソードのある釜はうれしいもので した。 |
ご酒 信州 志賀高原 産 銘「縁喜(えんぎ)」 宗乃さんのお里とか伺いました
この茶室は織田有楽好の如庵のうつしになっています。国宝の如庵は仕付け棚が水屋にあるところをここでは席中に移され、お茶事に使い勝手のいいように使用されていました。懐石をいただいて陶然となっておりますうちに、炭がよく熾こりました。ご名炭ともうしましょうか。釜には湯気が立ち昇っています。初坐がおわり、いったん待合に戻りました。 中立 腰掛待合 このとき、おもいもかけない、大変なことが起こりました。次客の河野氏が突然崩れ落ちるうに前のめりになり炭火が熾っている大すり鉢の上に、倒れられたのです。巨躯の男性を女ふたりごいっしょに両側から引張り上げたものの、失神された方の体重はどうしようもありません。私はあわてて大火鉢を他所へ持っていきました。救急車を!というだてさんの声。その時、氏が身を起してきて言われました。「ああ、酒を飲みすぎたのか、急にわからなくなって。もう大丈夫です。いやぁ〜、ご心配をかけました。」 見ると手の甲に火傷をされているではありませんか。私はつくばいの水を柄杓ですくって河野氏の手に2度かけました。それから、待合になっている守貧庵のお部屋で、おひとりだけあとは静養していただくことになりました。 茶寮の仲居さんにお聞きしますと時々、こうした場合があるとのこと。氏は日ごろから参禅と登山をされている病気知らずの方ですから、こうした場合もまことに恬淡とされ、大人物の感をあらためて実感いたしました。後でいわく。「あのまま逝ってしっまていたら幸福だったかもしれません。不昧公の守貧庵で寝られたのはよかったです。」 |
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お茶銘 淡々斎お好み 葵の昔 三久園詰
淡々斎宗匠が大橋茶寮のために好まれたお茶です
このあと、桂離宮をうつしたお部屋などごも案内くださいました。東京道場ができるまでは稽古場であった別の広間も。淡々斎宗匠がここで床柱にもたれてお稽古をみられていたその痕跡も残っていました。風炉先屏風のかげに、お供えの菓子とお茶。毎日欠かさずこうした行いをなさっているのでした。 |
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アクシデントがあったものの、ご亭主は平常心をもってご無事茶事をおえられました。そして三人は、それぞれの思い出をいだいて、大橋茶寮を後にしたのでした。ご次客はこれからお酒は飲まれないでしょうか?山登りもたぶん控えられるでしょうね。「ひっくり返ったのはそのまま書いてください。」と電話でおっしゃるのですよ。もう(笑)。それからお詰の役をつとめて頂いたお三客さん、お世話さまでございました。お写真も何枚か拝借いたしました。 |
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いのちをかけた茶人とは、大げさなもの言いとおっしゃいますか。なんの道であれ一筋に生きてこられた方は多かれ少なかれいのちをかけて来られたといっていいのではないしょうか。自分をふりかえりますと、ああ、到底足元にも寄れない。これほどのお茶事を私はしたことがないと…。この方の謙遜にしてひたむきな心。わびすけはしみじみと思いました。点前の美しさはもとより、毎日お茶事をされていることのさりげなさ。母性がにおうような暖かい思いやり。お道具の取り合わせには教養がしのばれました。洗練された美意識、なんと多くのものを私は学ばせていただいたことでしょう。 守貧庵のあるじ、大橋宗乃さん。 思わず先生!と呼びかけたくなるような茶の先達のお方です。ここにご芳書の一節の引用をお許しくださいませ。 「謝茶 お家元様の膝下でお過ごしでいらっしゃいます先生にはさぞかしじれったくお思いでございましたでしょう。幾重にもお詫び申し上げます。 私は淡々斎宗匠のお徳とお教えを生涯守らせていただきます。(後略) その後河野先生には如何でございましょうか。お案じ申し上げております。だて様にもどうぞよしなにお願い申し上げます。京都でのおめもじを楽しみにいたしております。 合掌 守貧庵 」 |
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