2003年7月12日




        

八雲と漱石 このふたりには多くの共通したものが あります。『猫』を主題にした作品があり、『こころ』という題名の本を書いています。本の装丁にも並々ならぬ関心をもち、みずからデザインをしたこともよく知られています。
詩にも、美術にも、稀有な才能を発揮したことは、読者にとってこの上なく幸せなことでありました。

ああ、自然を愛し、にんげんを愛し、この日本を愛してやまなかった二人の文豪!

ここに讃仰のこころをもって、ささやかなページを捧げます。
  

小泉八雲は、熊本の第五高等中学校に教諭として赴任しました。
そこに漱石が赴任してきましたので3年で職を辞することになります。
後に東大英語講師の職を得ましたが、またもや漱石が同じ英語講師として赴任してきました。
八雲はまた職を離れます。3度目のかかわりは雑司が谷霊園をみずから選んだことでした。

小泉八雲の節子夫人は夫の追憶を『思い出の記』として著しました。
のちに夏目漱石の鏡子夫人は、小泉節子の著書にならい、娘婿・松岡譲の協力を得
 『漱石の思ひ出』を口述、松岡の筆録によって岩波書店から出版、世に遺しました。
このことを夏目鏡子は『漱石の思ひ出』のなかで率直に語っています。





 左 八雲が長男一雄への
 英語レッスンに用いた
 自筆の教材





                 かえる
        右 八雲 筆 「蛙」 

小泉八雲 令孫  小泉 時 氏








2002/4/29

昨年4月鎌倉漱石の会へまいりました折、東慶寺で小泉時氏ご夫妻におめもじいたしました。
後日、拙サイトの「三四郎池」のプリントをお送りしたところ、思いがけずこのようなお手紙を頂戴したのでした。
明治41年9月17日付けの朝日新聞、『三四郎』のコピー。さらにステキなハーングッズ(?)の数々!
ここに、みなさまへおすそ分けのご披露をさせていただきますね。


 

 





小泉八雲秘稿画本「妖魔詩話」

寺田寅彦

十余年前に小泉八雲こいずみやくもの小品集「心」を読んだことがある。その中で今日までいちばん深い印象の残っているのはこの書の付録として巻末に加えられた「三つの民謡」のうちの「小栗判官おぐりはんがんのバラード」であった。日本人の中の特殊な一群の民族によっていつからとも知れずうたい伝えられたこの物語には、それ自身にすでにどことなくエキゾティックな雰囲気がつきまとっているのであるが、それがこの一風変わった西欧詩人の筆に写し出されたのを読んでみると実に不思議な夢の国の幻像を呼び出す呪文インカンテーションででもあるように思われて来る。物語の背景は現にわれわれの住むこの日本のようであるが、またどこかしら日本を遠く離れた、しかし日本とは切っても切れない深い因縁でつながれた未知の国土であるような気もする。そうかと思うとどこかまたイギリスのノーザンバーランドへんの偏僻へんぺき片田舎かたいなかの森や沼の間に生まれた夢物語であるような気もするのである。

 それからずっと後に同じ著者の「怪談」を読んだときもこれと全く同じような印象を受けたのであった。
 今度小山おやま書店から出版された「妖魔詩話ようましわ」の紹介を頼まれて、さて何か書こうとするときに、第一に思い出すのはこの前述の不思議な印象である。従って眼前の「妖魔詩話」が私に呼びかける呼び声もまたやはりこの漠然ばくぜんとした不思議な印象の霧の中から響いてくるのは自然の宿命である。

 八雲氏の夫人が古本屋から掘り出して来たという「狂歌百物語」の中から気に入った四十八首を英訳したのが「ゴブリン・ポエトリー」という題で既刊の著書中に採録されている。それの草稿が遺族の手もとにそのままに保存されていたのを同氏没後満三十年の今日記念のためにという心持ちでそっくりそれを複製して、これに原文のテキストと並行した小泉一雄こいずみかずお氏の邦文解説を加えさらに装幀そうていの意匠を凝らしてきわめて異彩ある限定版として刊行したものだそうである。

 なんといってもこの本でいちばんおもしろいものはやはりこの原稿の複製写真である。オリジナルは児童用の粗末な藁紙わらがみノートブックに当時丸善まるぜんで売っていた舶来の青黒インキで書いたものだそうであるが、それが変色してセピアがかった墨色になっている。その原稿と色や感じのよく似た雁皮がんぴ鳥の子紙に印刷したものを一枚一枚左側ページに貼付てんぷしてその下に邦文解説があり、反対の右側ページには英文テキストが印刷してある。

 書物の大きさは三二×四三・五センチメートルで、用紙は一枚漉いちまいずきの純白の鳥の子らしい。表紙は八雲氏が愛用していた蒲団地ふとんじから取ったものだそうで、紺地に白く石燈籠いしどうろうはぎ飛雁ひがんの絵を飛白染かすりぞめで散らした中に、大形の井の字がすりが白くきわ立って織り出されている。

 これもいかにも八雲氏の熱愛した固有日本の夢を象徴するもののように見えておもしろい。このような蒲団地は、今日ではもうたぶんデパートはもちろんどこの呉服屋にも見つからないであろう。それをわざわざ調製したのだそうである。小山書店主人のなみなみならぬ熱心な努力が、これらの装幀にも現われているようである。この異彩ある珍書は著者、解説者、装幀意匠者、製紙工、染織工、印刷工、製本工の共同制作によってできあがった一つの総合芸術品としても愛書家の秘蔵に値するものであろう。ただ英文活字に若干遺憾の点があるが、これもある意味ではこうした限定版の歴史的な目印になってかえっておもしろいかもしれないのである。

 複製原稿で最もおもしろいと思うのは、詩稿のわきに描き添えられたいろいろの化け物のスケッチであろう。それが実にうまい絵である。そうして、それはやはり日本の化け物のようでもあるが、その中のあるものたとえば「古椿ふるつばき」や「雪女」や「離魂病」の絵にはどこかに西欧の妖精ようせいらしい面影が髣髴ほうふつと浮かんでいる。著者の小品集「怪談」の中にも出て来る「轆轤首ろくろくび」というものはよほど特別に八雲氏の幻想に訴えるものが多かったと見えて、この集中にも、それの素描の三つのヴェリエーションが載せられている。その一つは夫人、もう一つは当時の下婢かひの顔を写したものだそうである。前者の口からかたかなで「ケタケタ」という妖魔ようまの笑い声が飛び出した形に書き添えてあるのが特別の興味を引く。

 その他にもたとえば「雪女郎」の絵のあるページの片すみに「マツオリヒシグ」としるしたり、また「平家蟹へいけがに」の絵の横に「カゲノゴトクツキマウ」と書いて、あとで「マウ」のを消してに訂正してあったりするのをしみじみ見ていると、当時における八雲氏の家庭生活とか日常の心境とかいうものの一面がありありと想像されるような気がしてくるのである。おそらく夕飯後の静かな時間などに夫人を相手にいろいろのことを質問したりして、その覚え書きのようなつもりで紙片の端に書きとめたのではないかという想像が起こってくる。

「船幽霊」の歌の上に黒猫くろねこが描いてあったり、「離魂病」のところに奇妙なの絵が添えてあったりするのもこの詩人の西欧的な空想と連想の動きの幅員をうかがわせるもののようである。

一雄かずお氏の解説も職業文人くさくない一種の自由さがあってなかなかおもしろく読まれる。
八雲氏令孫の筆を染めたという書名題字もきわめて有効に本書の異彩を添えるものである。

                               (後略)








思い出の記

小泉節子

(一部分抜粋させていただきます。)

 へルンが日本に参りましたのは、明治二十三年の春でございました。
ついて間もなく会社との関係を絶ったのですから、遠い外国で便り少い独りぽっちとなって一時は随分困ったろうと思われます。出雲の学校へ赴任する事になりましたのは、出雲が日本で極古い国で、色々神代の面影が残って居るだろうと考えて、辺鄙で不便なのをも心にかけず、俸給も独り身の事であるから沢山は要らないから、赴任したようでした。


 下市へ参りまして昨年の丁度今頃赴任の時泊りました宿屋を尋ねて、踊りの事を聞きますと『あの、今年は警察から、そんな事は止めよ、と云って差止められました』との事で、ヘルンは失望して、不興でした。『駄目の警察です、日本の古い、面白い習慣をこわします。皆耶蘇のためです。日本の物こわして西洋の物真似するばかりです』と云って大不平でした。


 それに瘤寺と云う山寺の御隣であったのが気に入りました。
 昔は萩寺とか申しまして萩が中々ようございました。お寺は荒れていましたが、大きい杉が沢山ありまして淋しい静かなお寺でした。毎日朝と夕方は必ずこの寺へ散歩致しました。度々参りますので、その時のよい老僧とも懇意になり、色々仏教の御話など致しまして喜んでいました。それで私も折々参りました。

 日本服で愉快そうに出かけて行くのです。気に入ったお客などが見えますと、『面白いのお寺』と云うので瘤寺に案内致しました。子供等も、パパさんが見えないと『瘤寺』と云う程でございました。

 よく散歩しながら申しました。『ママさん私この寺にすわる、むつかしいでしょうか』 この寺に住みたいが何かよい方法はないだろうかと申すのです。
『あなた、坊さんでないですから、むつかしいですね』『私坊さん、なんぼ、仕合せですね。坊さんになるさえもよきです』『あなた、坊さんになる、面白い坊さんでしょう。眼の大きい、鼻の高い、よい坊さんです』『同じ時、あなた比丘尼となりましょう。一雄小さい坊主です。如何に可愛いでしょう。毎日経読むと墓を弔いするで、よろこぶの生きるです』
『あなた、ほかの世、坊さんと生れて下さい』『あゝ、私願うです』『高い、よい坊さんです』『同じ時、あなた比丘尼となりましょう。一雄小さい坊主です。如何に可愛いでしょう。毎日経読むと墓を弔いするで、よろこぶの生きるです』
『あなた、ほかの世、坊さんと生れて下さい』『あゝ、私願うです』


 私共と女中と小猫とで引越しました。
この小猫はその年の春未だ寒さの身にしむ頃の事でした、ある夕方、私が軒端に立って、湖の夕方の景色を眺めていますと、直ぐ下の渚で四五人のいたずら子供が、小さい猫の児を水に沈めては上げ、上げては沈めして苛めて居るのです。私は子供達に、御詫をして宅につれて帰りまして、その話を致しますと『おゝ可哀相の小猫むごい子供ですね――』と
云いながら、そのびっしょり濡れてぶるぶるふるえて居るのを、そのまま自分の懐に入れて暖めてやるのです。その時私は大層感心致しました。


 山で鳴く山鳩や、日暮れ方にのそりのそりと出てくる蟇がよい御友達でした。
 テテポッポ、カカポッポと山鳩が鳴くと松江では申します、その山鳩が鳴くと大喜びで私を呼んで『あの声聞きますか面白いですね』自分でも、テテポッポ、カカポッポと真似して、これでよいかなどと申しました。蓮池がありまして、そこヘ蛇がよく出ました。『蛇はこちらに悪意がなければ決して悪い事はしない』と申しまして、自分の御膳の物を分けて『あの蛙取らぬため、これを御馳走します』などと云ってやりました。
『西印度にいます時、勉強して居るとよく蛇が出て、右の手から左の手の方に肩を通って行くのです。それでも知らぬ風をして勉強して居るのです。少しも害を致しませんでした。悪い物ではない』と云っていました。


 うわべの一寸美しいものは大嫌い。流行にも無頓着。当世風は大嫌い。表面の親切らしいのが大嫌いでした。悪い方の眼に『入墨』をするのも、歯を脱いてから入歯をする事も、皆虚言つき大嫌いと云って聞き入れませんでした。
耶蘇の坊さんには不正直なにせ者が多いと云うので嫌いました。
しかし聖書は三部も持っていまして、長男にこれはよく読まねばならぬ本だとよく申しました。


 落合橋を渡って新井の薬師の辺までよく一緒に散歩をした事があります。その度毎に落合の火葬場の煙突を見て今に自分もあの煙突から煙になって出るのだと申しました。

 平常から淋しい寺を好みました。垣の破れた草の生いしげった本堂の小さい寺があったら、それこそへルンの理想でございましたろうが、そんなところも急には見つかりません。
墓も小さくして外から見えぬようにしてくれと、平常申して居りましたが、遂に瘤寺で葬式をして雑司谷の墓地に葬る事になりました。


 雑司ケ谷の共同墓地は場所も淋しく、形勝の地でもあると云うので、それにする事に致しました。一体雑司ケ谷はへルンが好んで参りましたところでした。私によいところへ連れて行くと申しまして、子供と一緒に雑司ケ谷へつれて参った事もございました。
 面影橋と云う橋の名はどうして出たかと聞かれた事もございました。鬼子母神の辺を散歩して、鳥の声がよいがどう思うかなどと度々申しました。関口から雑司ケ谷にかけて、大層よいところだが、もう二十年も若ければこの山の上に、家をたてて住んで見たいが残念だ、などと申した事もございました。


 表門を作り直すために、亡くなる二週間程前に二人で方々の門を参考に見ながら雑司ケ谷辺を散歩を致したのが二人で外出した最後でございました。
その門は亡くなる二日前程から取りかかりまして亡くなってから葬式の間に合うように急いで造らせました。


 掛物をよく買いましたが、自分からこれを掛けてくれあれを掛けよ、とは申しませんでした。ただ私が、折々掛けかえて置きますのを見て、楽しんでいました。御客様のようになって、見たりなどして喜びました。
 地味な趣味の人であったと思います。御茶も好きで喜んで頂きました。私が致していますと、よく御客様になりました。一々細かな儀式は致しませんでしたが、大体の心はよく存じて無理は致しませんでした。


 ヘルンは虫の音を聞く事が好きでした。この秋、松虫を飼っていました。九月の末の事ですから、松虫が夕方近く切れ切れに、少し声を枯らして鳴いていますのが、いつになく物哀れに感じさせました。私は『あの音を何と聞きますか』と、ヘルンに尋ねますと『あの小さい虫、よき音して、鳴いてくれました。私なんぼ喜びました。しかし、段々寒くなって来ました。知っていますか、知っていませんか、直に死なねばならぬと云う事を。気の毒ですね、可哀相な虫』と淋しそうに申しまして『この頃の温い日に、草むらの中にそっと放してやりましょう』と私共は約束致しました。
 桜の花の返り咲き、長い旅の夢、松虫は皆何かへルンの死ぬ知らせであったような気が致しまして、これを思うと、今も悲しさにたえません。



底本:「小泉八雲全集 別冊」第一書房
   1927(昭和2)年12月20日発行            ー青空文庫からー







ラフカディオ・ハーン(1850-1904・嘉永3年-明治37年)
明治37年9月26日歿 54歳(正覚院殿浄華八雲居士)豊島・雑司ヶ谷霊園



ギリシャの小島で生まれ、辛く苦しい前半生、20年に及ぶアメリカ大陸での放浪、紀行作家として明治23年春41歳で来日して以来、日本人よりも「日本」を愛し、日本の女性を妻とし、日本に帰化したラフカディオ・ハーン。此の世よりも夢の世を好み、「浦島太郎」を心から愛した人、明治37年9月19日突然の心臓発作に襲われ、その僅か一週間後、狭心症のため9月26日夕、14年余りを過ごした異国の地で此の世を去った。



右に「小泉家之墓」左に妻「小泉セツ之墓」を置き「小泉八雲之墓」は、その優柔とした楷書体の書体とともに、周辺の墓域を潔いものとしていた。墓前に供えられた左右の白菊が、なお薄明かりのように静寂とし、八十数年を経た椎ノ木幹が八雲の夢に答えて、墓域を覆う暗緑の枝葉を支えていた。
「プレザント、ドリーム」

                                               文学者掃苔録図書館より



   


さて、ここで 猫が出てきますよ〜〜〜絵といっしょに 物語をゆっくりと お楽しみくださいませ。
画はヘルンが描いたものではないようです。








らくがき小坊主
作:ラフカディオ ハーン

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                  あの小僧はん あの〜 雪舟はん でっしゃろか〜〜 


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                                               追加  7月29日UP

小泉時氏から お手紙を いただきました。
あまりうつくしいお手紙ですので、失礼を省みずご披露させていただきます。














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