2003年7月6日


精中・円能・無限忌 たむけの唱和式


平成十五年七月五日 裏千家今日庵 

追善釜の一つ  直門・稽古場席は 恒例のように 茶道研修ビル広間にて
全国からおまいりされた方々を お迎え申し上げました

そして 咄々斎にて 七事式も ご奉仕させていただきました

写真はそれぞれクリックしてご覧くださいませ 大きくなります


*1
『淡交』9月号グラビアに 掲載されたもの
*2
濃茶 順服

画像を提供してくださいました淡交社にあつく御礼申し上げます

                                      再アップ 2003/12/13



詳細は 僭越ながら わびすけの日記から

裏千家十一代玄々斎精中(1810〜1877)は、 幕末から明治の変動の時代に、「茶道は遊芸にあらず」とし、
「忠孝五道を精励し」「貴賎衆人親疎の隔てなく交会」するものとして『茶道の源意』を書いているひとであるが、
今日庵のみならずひろく茶道界に偉業を成し遂げた宗匠であった。
外国人を迎えるための椅子式の茶礼を創案したのも玄々斎である。

 もとは三河領主の松平家に生まれ、10歳で裏千家十代認得斎の養子として迎えられたという。
わずか10歳で実の母とも別れ他家に入った少年の胸中はいかばかりであっただろう。
それを救ったのは養母となった認得斎夫人の愛情とすぐれた教育であった。

 漢学をはじめとしてあらゆる学問・教養を学び、身につけた玄々斎は17歳で裏千家十一代当主となる。
今では考えられないようなことではなかろうか。よき人びとの広範な輪にも恵まれた。

 尾張徳川家、なかでも十二代の斉荘(なりたか)は、この玄々斎精中宗室に茶道を学んだ。
ともに同年齢であったという。友人であり師弟でもあったふたりには茶道を媒介として深い信頼関係があったようだ。

 さて、こうした玄々斎精中という裏千家中興の祖と他の歴代宗匠をおまつりし、供養する毎歳忌が今日の精中忌なのである。
 宗家において神聖な座敷である咄々斎、その八畳の間で七事式という協働の点前をご奉仕させていただく。
 いつものことながら緊張と感激の瞬間である。
(*1で短冊雑を手に朗詠しているのが私。
                     

2003/07/05 Sat 23:47 本番 泥縄の歌 ブログ 漱石サロン ランデエヴウ


会記




大広間









待合に




香合




灰がた




火入れの灰




火を入れる




箱書き



10
煙草盆



11
準備



12
全体のすがた



13
水次 フランス人形の絵



14
棗と茶杓



15
すだれ



16
咄々斎にて
 手向けの唱和式

このほかに 仙遊の式もありました



17
ご奉仕のあとの
 五人のメンバーでした

誰かの袂 物入れみたいですか〜
ごめんやっしゃ



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