2003年2月6日


 

今日庵の 明星であられた 伊住宗晃宗匠が 急逝されました
ここに ささやかな しのぶ草を 手向け ご冥福をお祈りもうしあげます。




伊住宗匠と中村業躰


昨年11月 19日 宗旦忌にて 

稽古場席として 恒例 志倶会がお釜を懸けさせて いただきます。
これは 兄君の現家元とおふたりで おみえになりました折の スナップ。

でも、私が撮影したのでは ありません。れっきとしたカメラマンが来てはりました。
水屋にいた私に 意外な 時の声あり。
「ちょっと。カメラが急に故障したと 言ってますよ〜。デジカメ貸してくれって。」

あ、そう、ではどうぞ。私のデジタルカメラで あんじょう 撮っとくれやす。
ということで、カメラマンに私はライカデジルックス1を渡しました。

 必ず画像を送信しますからと、私は固い約束をしました。 
彼はそのため メールアドレスを記載した名刺を取りに、会社へ走りました。

さて 帰宅して画像を調べると 撮れたのは このような写真でした。
もちろん遠景のものを 一部分私が切り取って 画像処理したものです。 






ご兄弟とは 礼をされるにも こうしてそれぞれ 他者に心くばりをなされます。
家元の視線の先には 席の担当者たちへ また末席に連なる客たちへ。

弟君の視線には 全国各地から 宗旦さまの為に お参りされた門人たちへ。









その若いカメラマンから 名刺を渡され 帰宅してから何気なく見ると なんと
月刊『淡交』誌 編集長! へえ わからんもんですなぁ〜

彼の撮影になる2点と 私が彼を撮った1点、都合3点の画像を 
私は添付メールで 送信しました。

すると編集長は 次のようなメールを 送ってくださいました。
うーむ 老女をいたわる気くばりといい、この如才なさ!
和の精神を どうか、みとうとくれやす。







お写真有難うございました。確かに拝受。

当方の写真は
モデルが抜群なのに腕が?

先生のはモデル最悪、腕抜群でした。

お恥ずかしい限りです。ともかくも無事、拙誌用の
マッキントッシュに移植しました。

ともかくも重ねて御礼申し上げます。

使わなかったとしても
何卒お赦し下さいますよう。













拙サイト 掲載「無限忌 ある日本のファミリー」 そのなかの1ショット。
四客目 伊住宗匠 続いて弘美夫人


この時、伊住宗匠は口元に 小さな腫れ物ができ 膏薬を貼って おいででした。
写真にも 出ておりますか?

なつかしいひと時で ございました。
わびすけ、「私のサイトのトップに 和の学校をリンクしても よろしいでしょうか?」
伊住宗匠、「ああ、ぜひお願いします。」

私のような者にも このように暖かいおことば。ずいぶん 励まされました。






鵬雲斎家元 北野天満宮 最後の献茶式」 の1ショット。
画像が ぶれていますが、宗匠の表情に 父君へのお気持ちが滲み出て
なんとも いえない 清々しい雰囲気 ですね。







父君 兄君 そして 続いて歩かれる 弟君の伊住宗匠
この時 すでに 病魔に侵されていらしたとは 到底おもえません。

なんと 覚悟ある 力強い 足取りで ございましょうか!






三光門 (重要文化財)

この門に 通るに 真にあたいする 伝統文化の継承者!

ああ、伊住宗晃宗匠。
あまりにも早く 逝っておしまいになりました。






平成十五年 二月二日 永眠

密葬 二月四日 堀川通りから 本法寺境内に 参列の方々が続きました。
出棺の際の 坐忘斎家元のおことば。
「弟と私は二人で一人前でした。右と左の腕があって ここまで 来ました・・・。」

後にのこされた夫人と遺児を 思い遣られ 一瞬 ことばが途切れました
無類といえるほど 仲のよい ご兄弟で いらっしゃいました・・・。








本法寺の境内に 建てられている長谷川等伯の像と 光悦が植えたといわれる松
いずこへ いずこへ 生きとし生けるものは 行くのでしょうか。

 ものみな 自然のなかに 生まれ合わせた わたくしたち。
ああ! ひかり輝く かなたへ と! 






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