2002年7月28日



ベルリンの壁  蓋置き
(ふたおき) 物語 −京都ー




ベルリンの壁崩壊・・・ これは その壁の破片から つくられた茶道具の おはなしです





裏千家第十五世 千宗室家元 書付  平和  ベルリンの壁土 以 蓋置 花押(かおう)










ブランデンブルグ門を背景に 壁の破片の土をもってつくられた 茶道具の一つ 蓋置きを 前面に
合成写真としたもの。 この写真には 二人の写真家のご協力をいただきました。

もとの画像は、松浦 孝久氏の 「ベルリンの壁」より。
それを私は拝借してエンボス加工にしてみたのです。

合成写真の指導は、ネットの先輩であり 著名なプロ写真家 村岡 秀男氏に。
蓋置きの写真はできたものの、切抜きがうまくいかず、先輩にSOSを発信。無事成功!
つまりこの写真は、三人の合作ということでございます。



さて、おもむろに・・・。
戦後50数年、いいえ60年近いというべきでしょうか。日本という国に戦争のない時代がこれほど長く
続いたことは嘗てありませんでした。そして毎年夏になると胸にこみあげる、あの大戦の悲惨さ。

同じ敗戦国であるドイツと日本・・・。有色人種であるがゆえにこの国に落とされた原子爆弾。
それに匹敵する悲劇がドイツにあるとすれば、それは何でありましょうか?

それは、東西ドイツ分断ではなかったでしょうか。
1961年8月にベルリンの壁建設が始まり、壁が開放された89年。ついに統一ドイツの到来。
じつに30年近い年月、国家と同胞に哀しい日々があったと思われます。
この間、日本は少なくとも或る意味で、平和でありました。

ひとりのカトリックの修道女が、壁解放後、その破片を日本に持ち込まれました。
その破片が、茶道の道具のひとつである「ふたおき」として、陶芸家によって作られました。
更に、今日庵お家元からは、この道具に「平和」というお書付を、贈呈として頂く光栄に浴しました。


壁の破片から道具をつくるという発想、それはほかでもない茶人のものであったように思います。
京都の町と茶道のせかい、そしてまた人々の恵まれた時間・・・・・どうか最後まで
ごゆるりとご覧いただけますならば、幸いでございます。






松浦 孝久 「ベルリンの壁写真館」

ブランデンブルク門

当時はベルリン分断の象徴であり、現在ではドイツ統一の象徴とされる。
有名な観光名所なのでベルリンを訪れる人が必ず行く場所です。東独もそれを知ってか、
門の前だけは壁を低く作って西ベルリン側からでも見やすいようになっていました。




私は、松浦さんにぜひ自薦の写真をと、お願いして下のカットとメールをいただきました。

 
 ベルナウ通りという道路沿いに建てられた壁です。
壁が出来る前は道路に沿ってアパートが立ち並んでいた所ですが、
東独が壁を作るために境界線を封鎖すると、アパートからこちら側へ
飛び降りたりして西ベルリンに亡命する人がたくさんいたのです。
ちょうど、建物の壁にあたる部分が東西ベルリンの境界だったためです。
西ベルリン側では地上で、市民や消防がマットを広げて飛び降りる人を
受け止めましたが、中には的を外して路上に転落し死亡した人もいました。
そうした飛び降りによる亡命を阻止するため、東独当局はアパートの窓という窓を
全部ブロックで塞いでしまい不気味なゴーストタウンの様相となったのです。
後に正式に壁を作るため、アパート群は取り壊されました。

 そんな話もあってベルナウ通りは有名で、観光客も多く、
日本人でも行かれた方は多いと思います。

松浦 孝久











蓋置きを拡大したもの。原寸の約二倍と思ってくださいませ。

壁はコンクリートでできていますから、このブツブツは、その破片が混入している為です。
京都市内にお住まいの陶芸家・西村徳泉氏の製作になる由。
なんでもコンクリート片があるので、仕事がし難かったとのこと。



破片を砕いて、茶道具をつくるということに関して、私にもそうした覚えがなくはございません。
妙心寺にある塔頭にいらしたOという高名な学僧の方とありがたいご縁を頂きまして、
三十数年前、もったいないことにお茶碗を頂戴したことがございました。
それは、インド北部のニレンゼンという河の砂をもって作られた抹茶茶碗で、O博士みずから、
「インド仏蹟巡拝 ニレンゼン河の砂をもって 銘 尼蓮禅河 」と書付けされております。
私はカトリックの修道女に、そのお茶碗で一服差しあげたこともございました。
では、その修道女、シスターCと私との交友から申し上げることにいたしましょう。

或る日、シスターは小さな包みを私に差し出していいました。
「知り合いの方に無理に頼んで、こんなものを作ってもらったの。よかったら使ってやってください」
話をお聞きしますと、ドイツ人のシスターが壁の破片を日本にもちこみ、それを貰ったこのシスターが
茶道具にすることを思いつき、茶碗と蓋置きとを陶芸家に依頼したのだそうです。
・・・いいのでしょうか。またしても、私の手もとに その一つをお預かりすることになりました。






シスターは以前、暫く私方にお稽古にみえておられました。
まあ世間話をお聞かせし、すこし楽しんでいただく程度の。
でも熱心に吸収される方でした。
ある日の茶事に水屋を手伝っていただいた折のスナップ。
待合の床、抱一の柿の絵。




炉の季節、濃茶点前。
ここにある蓋置きは、
オランダ。
シスターは稽古のための装いで。





当時、教職にあったシスターの教え子たち。大内塗りの雛人形を私がプレゼントいたしましたら、
お礼にとこの写真が送られてまいりました。菜の花と桃の花・・・小学生のいい子たち。
・・・ささやかな、けれども心のこもった雛まつり。







京都は、幸運にも戦災をまぬがれて、町全体が昔の香りをどこか漂わせています。
祇園祭、宵山の七月十七日、お池から三条あたりを歩き、室町へ屏風まつりを見に、
まいりました。若い女性もめずらしく浴衣姿で、それは可愛ゆくて・・・。

鉾にもいろいろ出会いましたが、撮影したのは一つだけ〜。












































自分の家を開放して、家宝の屏風を展示され、入り口から道行く人々に見てもらうよう、
それぞれに、配慮されています。家々の格式はもとより、京の伝統を大切にする鉾町の誇りと
いえましょう!ほんとうにすばらしい祭りと、毎年のように感嘆して歩く私です。

奢るは長からずーーー扁額の字はこう言っているのでしょうか。
家の間取りは、ご存知、うなぎの寝床ですね。
そのため、風が通りぬけて涼しいのです。







それでは、いよいよ、蓋置きの、登場とあいなりました。
裏千家今日庵ご宗家の稽古場から、僭越ながらご説明をさせて頂きます。





蓋置きは、最初けんすいという、こぼしのなかに入れて持ち出されます。
竹の柄杓をまっすぐにかけて。

建水は捨てる湯水を入れる(こぼす)器、中華料理には骨を入れる器がございますね。
似たようでも似て非なるものかもしれません。
なぜなら、清浄な蓋置きが鎮座する場所ですから。





干菓子 滝せんべい 落雁






建水の中から 蓋置きを取り出し、その上に柄杓をひきます。
柄杓を置く役割もはたします。





次に、釜の蓋をあけて蓋置きの上に、
そうして、茶巾を上に、載せる役割も、ございます。

小さくても、大切な用を!








裏千家業躰の重鎮、土本宗丘師。茶道だけでなくカメラの達人でいらっしゃいます。
ベルリンの壁蓋置きを、不肖私が持参し、使用させて頂くことにご理解を賜りました。
ところが、急遽、指導者からカメラマンにご変身!
なんと「ここは撮影ご法度だよ。」と仰りながら。まことに思いがけない出来事でした。
ただしカメラはわが愛機コンタックス。シャッターを押されたというだけではございませぬ。
被写体のこの老醜をば、どうにかこうにか隠していただいたような・・・

ああ、こころから感謝申し上げます。













柄杓と蓋置きのかざりかた、一色だけではございません。
先生は二通りのかざりかたで、写真に撮るよう配慮してくださいました。











槍の間にて

花 三白草。姫ゆり。  掛け花入れ 備前。
風炉 面取り。  釜 万代屋。  棚 淡々斎好 折り据え。  水指 安南しぼり手。
薄茶器 甲赤。
蓋置き ベルリンの壁。








抛筌斎にて

棚 淡々斎好 荒磯。  水指 交趾 荒磯 永楽造。  棗 利休形 宗哲。

蓋置き 鵬雲斎家元箱  銘 平和 ベルリンの壁。









おん祖堂(利休堂) へとつづく 畳廊下。

三十六度前後の京都の暑さは、今日もおなじです。
冷房は別にない世界・・・ただ、道の教えにしたがって、あるくのみ・・・。

おもえば 不思議な出会いでした・・・はるかベルリンから京都へ・・・と。
その余得もございましょうか。 すずやかな 風が さやさやと、通りぬけて まいります。

は? 蓋置きは今どこにあるのか? ですかぁ〜
すみません、即今、すばやく 持ち帰りましたぁ〜(笑)。




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